「新よもやまへひとこと(掲示板バージョン)」    ホームページへ    去年の8月

いろいろ日記(1998.8.1〜)



1998.8.31 Mon. 雨が上がり、ミサイルが降ってくる

ここ数日続いていた大雨がようやく収まった。台風も東にそれ、本州に上陸することはなかった。

と思えば、北朝鮮が弾道ミサイルの発射実験をし、今度は本州を飛び越えて三陸沖に落ちたという。日本に住んでいる私にとってみればまったく迷惑なことではあるが、第三者の立場から見れば金正日の気持ちも少しはわかる。アメリカは、世界中の好きな場所に非常に高い精度で巡航ミサイルを打ち込むことができることを証明した。金正日は、北朝鮮というどこにも頼れるものがまったくない孤立無援の国の独裁者である。常に衛星で見張られ、いつ自分の家に巡航ミサイルが撃ち込まれるかわからない状況が続いている。これでは、自分にも一矢報いる力があるのだと誇示したくなる気持ちもわからないでもない。

といっても東京にミサイルを撃ち込まれては困るのではあるが。


1998.8.30 Sun. 人の流れ

水曜日から間歇的に大雨が降る天気が続いている。出かけるときには傘は手放せない。10分から20分ぐらい突然大粒の雨が降り、しばらくすると止んでしまうという、熱帯の雨期のような天気である。

小笠原諸島の近くに台風が停滞し、その影響で湿気をたっぷりと含んだ風が南から吹き込んでいるらしい。関東から東北、北海道にかけて土砂崩れや洪水が起こっているところが多い。特に、北関東から福島にかけての地域がひどい。これから月曜日、火曜日にかけて台風がやってくる。もう、これだけ雨が降っている上に台風がやってくるわけだから、水害が心配である。

さて、先日、旅行で立ち寄ったナンタケッタ島で捕鯨博物館へ行き、漁師が世界の海をめぐる話に興奮したことを書いた。そのことに刺激され、久しぶりに、鶴見良行「ナマコの眼」(ちくま学芸文庫)を読み返している。

中華料理では、ホシナマコを戻して食べる料理がある。このホシナマコは、日本から東南アジア、南太平洋にかけての広い地域で作られ、その大部分が中国へ運ばれていく。このホシナマコの生産と交易は16世紀の頃から本格的になったらしい。しかも、このホシナマコというものは、東南アジア、南太平洋ではほとんど食されず、はじめから中国への輸出を目的として漁が行われ、加工されていた。また、東南アジア、南太平洋の地域の植民地化が進んでも、このホシナマコという商品は、あまりヨーロッパ人の商人の手を経て交易されることがなく、主に、華人の手で交易されていたという。「ナマコの眼」は、こういったナマコに目をつけて、あまり体系的に研究されてこなかった16世紀から現代まで続く、国家や植民地の歴史ではあまり語られないヒトとモノの移動について語った本である。

「ナマコの眼」は、500ページを越す大部の本であり、また、ディテールにこだわって書かれた本でもあり、興味深いエピソードが詰め込まれている。そのすべてを引用するわけにもいかないが、ここでは、特に人の移動に関して私がおもしろいと思ったところをいくつか紹介したい。

オランダは、十七世紀初め、バタビアに拠点を構えたけれど、この海域の交易を支配するには至らなかった。バタビアと広東を結ぶ交易では、いつも中国のジャンクが優勢だった。・・・運ばれてくる最大の貨物は、苦力だった。オランダはジャンク交易の利に切歯扼腕しながらも、苦力労働力を必要としたから、かれらを見逃さざるを得なかった。苦力というなの奴隷の売買には、精密に組織された華人ギルドが働いていたし、多額の資金が投下されていた。

海賊の主要な獲物は人間労働力としての奴隷である。・・・海賊も奴隷も、東南アジアでは、植民地以前からある伝統の古い制度である。・・・ここの奴隷制は、文化や人間性を視野に入れていた。少なくとも足を鎖で縛るような野蛮な仕打ちをとらなかった。能力によって人を使いわける眼識を奴隷の主人は蓄えていたのである。

・・・グレート・バリアー・リーフ沿岸の開拓史にブラックバーディング(blackbeirding)やシャンハイイング(Shanghaiing)などの慣習がたびたび登場する・・・ブラックバードは「誘拐され特にオーストラリアで奴隷として売られた者」・・・シャンハイについては辞書にこうある。「(暴力・麻薬・酒などを用いて)無法な手段で船に連れこんで水夫にする。」英国海軍が強制徴兵隊を巡邏させ、リヴァプールなどで水夫を拉致した歴史は古い。

最近、中国からの密航者がコンテナのなかで死んでいるのが発見された事件があった。日本へ密航者が送り込まれる歴史はここ10年程度かもしれないが、このような労働力の移動を目的とした密航、苦力の売買といった歴史はかなり深いようであり、そういった視点から蛇頭を見てみると、また、別の見方もできるのかもしれない。

ここで引用した例は、奴隷のように拉致するという形態での人の移動であるが、もちろん、人の移動には、奴隷の売買の他にも、移民、難民、出稼ぎ、集団就職、行商、貿易、交易、探検、遠洋漁業、布教、征服、逃亡、観光、放浪などなどさまざまな形態がある。こういった人の移動を中心に据えた歴史というものを読んでみたいと思う。

「ナマコの眼」は、アジアから南太平洋にかけてのヒトとモノの移動の話であった。宮本常一の民俗誌「忘れられた日本人」(岩波文庫)を読むと、江戸の終わりから明治頃の日本の農村においても、ヒトの移動は案外はげしかったことがわかる。

日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。旧藩時代の後期にはもうそういう傾向がつよく出ていたようであるが、明治に入ってはさらにはなはだしくなったのではなかろうか。・・・私の郷里は江戸時代の後期になって特に人の増えたところである。そうして天保期にはもう飽和状態になっていた。そのくせ分家はどしどしさせていたのである。これは農業以外の職業で飯を食うことができたからである。もとより、村内にそうした仕事があったわけではなく、村外にあった。大工・木挽・石工・水夫・浜子など、男の働き口はいくらでもあって、二、三男はそうした仕事をもとめて他郷へ働きに出かけた。

(宮本常一の祖父には)子供が四人あって、男が二人女が二人あった。・・・長男は二十一歳の年にオーストラリアのフィジー島へ出稼ぎに行くのだが、やがて失敗して一年あまりで帰ってきた。

そのころ久賀じゃァハワイへいくことがはやっての・・・。久賀で働きゃァ一日が十三銭にしかならんが、ハワイなら五十銭になる、何ともええもうけじゃないかちうてみなどんどん出ていった。

昔は、若い娘たちはよくにげ出した。父親が何にも知らない間にたいては母親としめしあわせて、すでに旅に出ている朋輩をたよって出ていくのである。

明治時代の初め頃には、南洋へ出稼ぎに行くことがごく普通の感覚で語られる地域もあったらしい。農業を続けていればあまり移動することもないのかもしれないが、二、三男で大工や木こりなどの職人になれば、若い頃は腕一つで台湾や朝鮮も含め、日本全国渡り歩いていた人も多かったらしい。

私の先祖をたどると、高木治兵衛という人が富山の方から江戸の近郊ま流れてきて、金物屋を開き、安政年間に死んでいるようだ。江戸時代の終わり頃、富山の農家の二、三男に生まれ、どこかで金物屋の技術を身につけ、江戸までやってきたのではないか、と私は勝手に想像している。「忘れられた日本人」に出てくる、奔放な旅をした人たちは、身近な感じがするのである。


1998.8.28 Fri. カルチャーギャップ

木本さんのページに書いてありましたが、アメリカでは、視線をあわせたとき微笑むという習慣があるようです。私の彼女も顔だけは見たことがあるというアメリカ人の同僚が、目を合わせると微笑むのでいったいどういう反応をすればよいのか戸惑うと言っていたことがありました。つまり、日本には、単なる挨拶としてだけ微笑むという習慣はないため、アメリカ風の挨拶の意図がうまく理解できなかったというわけです。

アメリカにいた女性の日本人観光客の多くは、プラダのリュックを持っていました。驚くほどの比率で。これなども、なんらかの日本文化の現れなのだろうと思えます。

彼女が韓国に一年ほど暮らしていた間、韓国の美容院で髪を切り、眉をそろえ、韓国で買った服を着て、さらに、韓国の化粧品を使っていたようです。在韓生活の最後の頃は、しゃべりさえしなければ、韓国人からも韓国人と思われるようになっていたようです。しかも、韓国語を話し出すと片言で、非常に不思議がられたとのこと。

言葉以外にも、身振り、表情、服装、化粧など思わぬことが文化的に拘束されている場合があるようです。いつも暮らしている文化から離れてみるということは、実に興味がつきないものです。


1998.8.27 Thu. 大雨

群馬県から帰るとき、乗る予定の特急が大雨で運休になっていた。無事に帰ってくることができたけれど、間一髪だった。

台風が小笠原に停滞し、関東から東北にかけて、梅雨末期の集中豪雨のような天候になっている。


1998.8.25 Tue. なっとうキムチチゲ

今日の夕食は、なっとうキムチチゲであった。

高木は、なっとうが好きで、香りがきつい食べ物も苦にしないのではあるが、さすがにこの「なっとうキムチチゲ」が食卓に上った瞬間のにおいにはたじろぐものがあった。あたためられたなっとうににおいに加え、ちょっとすっぱくなったキムチの香りが。

味は、すさまじい香りに反して、穏やかでおいしいのであった。キムチの酸っぱいような、棘のあるような味が、なっとうで丸くなり、ご飯のお供に非常によい。しかも、今日のような暑い日に、暑くて辛いものを食べ、思い切り汗をかくと、悪いものが汗とともに身体から抜けていくような気がするのである。


1998.8.24 Mon. ひでぶ

BSマンガ夜話の新シリーズが始まった。最近のマンガ夜話は今ひとつ盛り上がっていなかったからあまり期待せず、ほとんど惰性で見始めたが、今日は、大笑いできた。なにせ、テーマが「北斗の拳」であったから。

私が高校生で、マンガを連載で読んでいた一番最後の頃、ジャンプにはとにかく勢いがあり、その中でもっとも盛り上がっていたのが「北斗の拳」だった。そのころのジャンプでは、私は「バオー来訪者」が一番気に入っていたのだが、なぜか、あっという間に連載が終わり、「ジョジョの奇妙な冒険」に代わっていた。そして、「バオー」が「ジョジョ」に代わると同時に、私もマンガを連載で読まなくなっていた。

マンガ夜話に寄せられるファックスに、自分の夫は息子にケンシロウという名前を付けたおおばかやろうですという話があったが、まったくもって、たまらんばかやろうですな。彦左衛門は、ケンシロウにバカ度のグレードで負けていると思います。橋本夫妻も、もっとがんばって、ぜひぜひケンシロウをしのぐもっともっとおおばかやろうな名前を考えてください。

え、そんなつもりで名前を考えているわけではない?


1998.8.23 Sun. 親孝行

彼女の母親の誕生祝いの食事会のため横浜へ行く。親戚関係の行事はわりと好き。

ランドマークタワーにある「鎌倉」という店でシャツを買う。安かった。

帰り、麻布十番に寄るとお祭りだった。場所柄のためか外国人多し。通りは人混みで歩く気にならず。

夕食は、中華料理を食べる。以上。


1998.8.22 Sat. 梁石白「血と骨」

今日は涼しく、過ごしやすい日だった。窓を開け、蝉の声を聞きながら、ソファで寝ころび、梁石白「血と骨」(幻冬舎)を読んでいた。

韓国は、日本と比べ、さらに親子親族の絆が深く、それだけ葛藤も根深いようで、いろいろ苦労も絶えないのであろう。戦前、在日朝鮮、韓国人コミュニティが成立するプロセスに関する記述は、知らないことも多く、興味深かった。

夜、石ばしへ鰻を食べに行く。この夏の鰻食べ納め。


1998.8.21 Fri.  秘密基地?

クリントン大統領の弁をそのまま信じると、サウジアラビアの大富豪の息子が、反米テロリストの悪の組織のパトロン兼親玉で、アフガニスタンとスーダンに秘密基地を作り、昨日、そのアフガニスタンの秘密基地で悪の組織の集会があり、それを狙って米国は巡航ミサイルで攻撃したという。これって本当かいな?もしかして、その悪の組織の名前は死ね死ね団?

クリントンが不適切な関係を告白したとたん、いきなり悪の組織の登場である。韓国でも、国内の汚職が発覚すると突然北朝鮮の潜水艦が座礁したりするし。信用できないレベルでは、北朝鮮も韓国も米国もほとんど同じである。国際謀略の話っていったいどこまでが本当なのかさっぱりわからぬ。

夏目房之介「マンガと「戦争」」(講談社現代新書)の中に、日本マンガ研究家の米国人に「沈黙の艦隊」の感想を聞いたところ、彼は「日本人が、そんなにアメリカを嫌いだなんて思いませんでした」と答えたという。アメリカ的な良さと不可分であるとはいえ、まわりがどのように自分たちのことを見ているのか気がつかないという米国人の性質には、基本的にはアメリカ好きの私もいらだつことがある。たぶん、米国人は悪者退治をしているつもりで、まわりの国も拍手喝采してくれると思っているのだろうな。困ったことに。

それにしても、こんな単純な善対悪のストーリー、日本にいるからこそその胡散臭さが嗅げるのであって、アメリカなどに住んでいるとすっかり洗脳されてしまって信じこまされるのだろうなぁ。ああ、怖い。怖い。


1998.8.20 Thu.  夏風邪

たっぷり遊んだあげく、夏風邪になる。ほんとうになっちゃいないです。すいません。(各方面へ頭を下げる。)

1998.8.18 Tue.  いろいろ、いろいろ

今日は何を書こうかと思い、旅行中の日記を読み返してみた。旅行で舞い上がっていたせいが、思い切り偉そうなことが書いてある。恥ずかしい気もするが、これはこれで、その時の自分の残した痕跡だから、消さずに残しておこうと思う。

と、文章を考えていると、電話が鳴った。夜中に電話とは穏やかではない。大学時代の同級生からだった。彼の父親が亡くなり、明日、通夜だという。なにも言ってあげることができなかった。

大学時代の同級生に電話連絡するために年賀状のファイルをめくった。すると、数年前に死んだ高校時代の同級生からの思い切りふざけた年賀状が目に入った。そして、彼の父親からの文字がいっぱい書いてある年賀状も。

いろいろなことがある。今週末には、祖父の顔を眺めてこようかなと思う。腰を重くしてよいことはなさそうな気がする。


1998.8.16 Sun.  東京

帰りの飛行機の中で、永井荷風「摘録断腸亭日乗」(岩波文庫)を読む。文体のためのあり、なかなか読み進まない。本の重量当たりの読書時間が長いし、日記だからどこで読みやめ、読み始めてもかまわないから、旅行に持参する本に適していると思う。

本を読みながら気になる部分があるとそのページの隅を三角形に折っている。この「断腸亭日乗」では、隅が折られているページが多い。もちろん、さすが永井荷風とうなってしまう部分もあるのだが、それだけではなく、彼の偏屈ぶりやさっぱり懲りない部分にも笑わせてもらっている。

十月八日。雨。春陽堂黄物持参す。正午女給お久また来たりて是非とも金五百円入用なりと居ずはりて去らず。・・・暴言を吐きてふてくされてる様子、宛然切られお富の如し。・・・世人カッフェーの女給を恐るる者多きは誠に宜なりといふべし。余今日までの自家の閲歴に徴して何ほどの事あらむと侮りゐたりしが、世評の当れるを知り慚愧に堪えず。凡て自家の経験を誇りてこれを恃むは誤りのもとなり。慎むべし慎むべし。

と、なじみの女給に強請られ、「慎むべし慎むべし」などと言っている舌の根も乾かぬ内に、次はこれである。

十月二十一日。・・・壺中庵記 西窪八幡宮の鳥居前、仙石山のふもとに、壺屋とよびて菓子をひさぐ老舗が土蔵に沿ひし路地のつき当たり、無花果の一木門口に枝さしのべたる小家を借受け、年の頃二十一、二の女一人囲い置きたるを、その主人自ら偏して壺中庵とよびなしけり。朝夕のわかちなく、この年月、主人が身を攻むる詩書のもとめの、さりとては煩しきに堪兼てや、親しき友にも、主人はこの庵ある処を深くひめかくして、独り我善坊ヶ谷の細道づたいひ、仙石山の石経をたどりて、この庵に忍び来れば、茶の間の壁には鼠樫の三味線あり、二階の窓には桐の机に嗜読の書あり、夜の雨に帰りそびれては、一つ寝の長枕に巫山の夢をむすび、日は物干しの三竿に上りても、雨戸一枚、屏風六曲のかげには、不断の宵闇ありて、尽きせぬ戯れのやりつづけも、誰憚らぬこのかくれ家こそ、実に世上の人の窺い知らざる壺中の天地なれと、独り喜悦の笑みをもらす主人は、そもそも何人ぞや。

などとと若い妓を囲い、悦に入っている。そして、次のような都合よい感想を書いている。

二月五日。・・・余かつて遊びざかりの頃、若い女の年寄りたる旦那一人を後生大事に浮気一つせずおとなしく暮らしゐるを見る時は、これ利欲のために二度とはなき青春の月日を無駄にして惜しむ事を知らざる馬鹿な女なりと、甚だしくこれを卑しみたり。然れども今日にいたりてよくよく思へば一概にさうとも言ひがたき所あるが如し。かかる女は生来気心弱く意地張り少く、人中に出でてさまざまなる辛き目を見むよりは生涯日かげの身にてよければ情け深き人をたよりにて唯安らかに穏なる日を送らむことを望むなり。生まれながらにして進取の精神なく奮闘の意気なく自然に忍辱の悟りを開きゐるなり。

なんというべきか。とにかく、懲りるということのない人である。

1998.8.15 Sat.  ニューヨーク4

昨日、ケープコッドからニューヨークまで自動車を走らせた。日本に帰る飛行機に乗る町に近づくにつれてもうこの旅行も終わりなのだという感覚が高まってくる。もちろん、旅行が終わるのはさびしい。しかし、なにごともなく日本に帰ることができるという安心感も高まってくる。旅行中は緊張もし、疲労もする。特に、自動車を運転している時は、落ち着かない気分である。だから、マンハッタンに入る橋を自動車で渡り、レンタカーを返却し、最後のホテルをチェックアウトし、空港に到着し、帰りの飛行機のチェックインをするたびに、さびしくもあり、また、ほっとする。

【アメリカでの野球観戦】

多少は、旅行に関する実用的な情報も書こうと思う。今回の旅行では、ニューヨークヤンキーステイディアムとボストンフェンウェイパークの二カ所で野球を見た。

メジャーリーグの日程は、MLBのホームページでチェックすることができる。ニューヨークではヤンキースとメッツが交互にホームゲームをやっているから、月曜日でもないかぎり、どちらかのゲームは見ることができるはずである。特に、野茂や吉井を見たいとか、メッツのファンだ、ということでもないかぎり、ニューヨークに来た以上はヤンキースの試合を見ることをおすすめする。球場の雰囲気は、ヤンキースの方が楽しいはずだ。また、ボストンではホームゲームの日程は確認する必要がある。私は、特に伊良部の登板を見ようと思わなかったから気にしなかったが、メジャーリーグの投手のローテーションはかなり規則的だから、直前の登板日程を見ておけば、だいたい好みの投手の登板日は分かる。また、スポーツ専門チャンネルのESPNを見ていると、翌日の先発投手の予定が報道される。

基本的には、プレイオフでもないかぎりレギュラーシーズンでは、満員になることは少なく、チケットは当日球場で手に入れることができる。週一回のフットボールに比べ、野球は週六回は試合があり、バスケットに比べると球場の収容人員が圧倒的に大きいからである。しかし、例外はもちろんあって、人気チームの開幕シリーズや優勝を争っているチームのシーズン後半には満員になることもある。以前、ロサンジェルスでドジャーズの開幕試合を見ようとしてチケットを入手できず、アナハイムでエンジェルスを見たこともある。だから、どうしても心配な人は、旅行社を通じて日本で入手した方がよいかもしれない。

ニューヨークヤンキースの試合のチケットは、59st & Lexton ave.の近くのヤンキースファンクラブショップで入手可能。私は、日曜日のデイゲームのチケットを前日の午前中に購入したが、3塁側観客席の最上段だった。99%はヤンキースファンなので、1塁側、3塁側の区別は特にない。4番の地下鉄でアップタウン方面へ行き、161stの駅の目の前が球場である。この駅の直前に地下鉄は地上に出て、ヤンキースティディアムは列車のなかから見える。ちょうど観客席の切れ目から緑の芝生が一瞬見える。

フェンウェイパークは、地下鉄のグリーンラインのKenmore駅のすぐ近くにある。球場のボックスオフィスで指定席を購入できる。さらに、入場口の脇に、鉄格子がはまっている窓口があり、ここで当日のみ販売している立ち見券がある。指定席が売り切れでも、この券で球場のなかに入ることができる。


1998.8.13 Thu.  ケープコッド2

ケープコッドのハイアニスという町からフェリーに乗り、ナンタケット島に渡った。18世紀から19世紀にこの島は捕鯨の基地として栄え、「モビーディック」にもその名前が出てくる。アメリカ国内で油田が発見され、19世紀の末、鯨油が必要とされなくなって急激に衰えた後、捕鯨の町としてのまちなみを保全し、いまでは保養地となっている。彼女によれば、JFKの息子のジョンジョンがキャロリンと結婚式を挙げた別荘があり、彼らのようなボストンやニューヨークのハイソサエティの保養地となっているそうだ。

捕鯨が全盛の頃は、この島から大西洋、南太平洋、北太平洋と鯨を追って全世界へ捕鯨船が航海していたようだ。このころの捕鯨は、金鉱と同じように、危険はあるが一攫千金の可能性がある産業で、アメリカ中から一山当てようと考えたごつい男たちが集まってきたようだ。さらに、捕鯨船は、行く先々でその地元の人々を船に乗せたようだ。だから、アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、フィジーなどの鯨取りもこの島にやってきていた。ジョン万次郎はナンタケット島ではないけれど、同じような事情で捕鯨船に拾われた一人だったようだ。おそらく、歴史には残っていないけれど、同じような事情でナンタケット島に流れてきた日本人もいたのだろう。

私は、こうした漁師たちが世界中の海を巡る話を聞くと、どうしたわけか興奮してしまう。昔、下北半島突端にある村の仕事をしていたとき、ある老漁師から、若い頃北海道のニシン漁が盛んだった頃、出稼ぎをした話を聞いたことがある。この話を思い出すとわけもなくうれしくなる。

考えてみれば、文化人類学も卒業した後には直接仕事に役立っているわけでもないから、もっと趣味的な卒論を書けばよかったと少々後悔している。どうせなら、捕鯨を巡るさまざまな民族、文化の接触や、その中から生まれる捕鯨文化などというテーマにしておけばよかったかもしれない。


1998.8.12 Wed.  ケープコッド

アメリカに来る前には、せっかくだからニューヨークカットの分厚いステーキでも思い切り食べようかと思っていた。実際には、時差を手早く解消としようと思って飲んだメラトニンという薬のためか、胃が痛くなり、とても肉を食べるどころではなくなった。しかし、この国には胃腸に優しい食事があまりない。ニューヨークやボストンであれば中華料理屋で湯麺を食べることができるからよいけれど、田舎のバークシャーではアメリカ的料理のレストランしかなく閉口した。痛んだ胃には、あの分厚い肉と皿からはみ出そうなフレンチフライの山はつらい。胃腸の弱いアメリカ人はいったい何を食べているのだろうか。

アメリカのレストランの料理は、どの国の料理であろうと大味になっており、特に、だしや隠し味に欠けていることが多いと思う。しかし、味覚というものは文化に依存するところが大きいから、こどものころからこのような味になじんでいればおいしく食べられるのかもしれない。

そして、すべての料理が信じがたい分量で出てくる。胃が弱っている私は、たいてい半分ぐらい残している。これも、体の大きさや食習慣の問題で、この国の人々の多くはそれだけの分量を必要とするということだろう。それにしても不思議なのは、あれだけ単調な味の料理を、あれだけの分量食べて、最後にはその味に飽きるということがないのだろうか。スパゲッティカルボナーラを頼んだところ、洗面器のような皿に盛られてきた。いくら食べてもあの卵味が延々と続く。おなかがいっぱいになる以前に、その味に飽きて食欲が減退してしった。

といっても、これもわるいことばかりではない。サンドイッチを頼むと、ハムやローストビーフがたっぷり挟まっている。つねづね日本の喫茶店のハムサンドのハムの少なさは犯罪的だと思っているから、デリでハムとレタスがたっぷりはさまったサンドイッチを食べるのはうれしい。

今日は、ボストンからケープコッドまでやってきた。バークシャーが軽井沢とすると、ケープコッドは、葉山と伊豆をまぜたような海岸の保養地である。魚料理が名物だから、胃も安心している。

【ニューイングランドのB&B】

ケープコッドでも、B&Bに泊まっている。なかなか感じがよい。バークシャーもケープコッドも避暑地だから夏のハイシーズンには、よいB&Bは混んでいるらしい。私の場合は、ニューイングランドのB&Bの斡旋をしているDestinnations New Englandという代理店とメールで相談しながら予約を取った。小さな個人的な代理店らしく、事務的なミスもあったけれど、親身に対応してくれて、実際に泊まった宿は両方とも気持ちがよかった。予約するためにはクレジットカードで宿泊料を前払いする必要があるから、予定が変わる可能性がある旅行の場合は使いづらいかもしれない。


1998.8.11 Tue.  ボストン

雨上がりの芝生の庭の前のバルコニーに置かれたいすに座り、私は新聞を読んでいる。朝食の準備の合間に、サリーがテニスボールを打つ音が聞こえる。彼女の犬は、テニスボールめがけまっしぐらに走っていく。オーブンからマフィンの香りが漂ってきた。

宿の部屋に置いてあったノートに、上に書いた文章を英語で書き残してきた。サリーとは、ここの宿の女主人のことである。

しかし、中学生の英作文のような文章になってしまった。サリーは、英語が不自由なのに一生懸命メッセージを書いてくれたと思ってくれて、決してわるい印象はないだろう。しかし、私が言いたかったことが伝わったかどうか不安である。

宿を出て、ハンコック・シェーカー・ビレッジに立ち寄り、ボストンへ向かった。ホテルに着き、荷物を置き、さっそく地下鉄に飛び乗ってフェンウェイパークへ行った。指定席はすべて売り切れていたが、立ち見券で入場することができた。

フェンウェイパークはすべてが古かった。建物はレンガを積み重ねて作られている。いすは木製のベンチである。都市計画や再開発というものが始まる以前に作られたこの球場は、町のなかの狭い空き地の形にあわせていびつな形に作られている。レフトには観客席がなく、高い塀が立っている。グラウンドも扇形になっておらずライトポール際が極端に短くなっている。そして、少しでも多くの観客席を作るためにファールグランドがほとんどない。それでも、もともとの敷地が狭いため、3万5千人も入ると満員になってしまう。そのぶん、観客席からは選手たちが間近に見ることができる。

フェンウェイパークは、1912年に作られたそのままの状態が保存されているように見える。たいていの球場では、観客を盛り上げるために拍手や声援を促す音楽や映像を流すが、ここではそのような演出はまったくない。野球のゲームと観客自身の拍手と歓声だけである。無骨なポップコーン売りが野太い声をはり上げている。そっけない鉄骨で組まれた内野観客席にかかる屋根に反響する歓声のざわめきを聞いていると、記録映像で見たことがあるだぶだぶのユニフォームを着た野球選手たちが走り回っている頃の野球場にいるような感じがするのである。

今回の旅行ではアメリカのノスタルジーの堪能している。ハーレー・ディビッドソン、ワイエス、ヤンキース、ジャズ、ノーマン・ロックウェル、アメリカンカントリー、シェーカー教徒、フェンウェイパーク。

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【今日のコマーシャル】

最近はプロレスにも忙しいカール・マローンが増毛剤のコマーシャルにでていた。毛が再び生えてきたことを、「ナイスリバウンド」などと言われていた。本当に、こんなことで本当にいいのかカール・マローン。


1998.8.10 Mon.  バークシャー

いま、マサチューセッツ州のリーという村にあるB&Bの部屋のソファの上に寝ころびながらこの日記を書いている。部屋の明かりを消し、ソファの横にあるスタンドだけをつけている。夜になると涼しくなり、窓からは風と木の葉がそよぐ音が聞こえる。いなかの古い家を改造した10部屋ほどの小さな宿である。

朝、予約してあったレンタカーを借り、マンハッタンを脱出し、バークシャー地方へ向かう。

バークシャー地方は、マサチューセッツ州の最も西側にある高原地帯で、ちょうど軽井沢の原型のような古い避暑地である。クラシック音楽が好きな人は、タングルウッド音楽祭でよく知っているかもしれない。ボストンフィルは、夏の暑い盛りの間、ボストンからバークシャーに本拠を移し、さまざまなコンサートが開かれる。私は、チケットを確保するだけの情熱がなかったから、コンサートには行かないが、ファンの人から見れば、わざわざバークシャーへまで行き、なんともったいないことかと思われるかもしれない。

バークシャーに着き、まずノーマン・ロックウェル美術館へ行く。ありきたりな感想だけれども、絵のすみずみ、あらゆる細部までにわたる観察眼の確かさ、手を抜くことがない集中力にあらためて感動する。そしてとにかく絵がうまい。あらゆる年齢、性別、階層、職業の人々の、あらゆる表情の顔が、すべてがそれらしく見える。不自然な顔というものがどれ一つとしてない。少年はうまく描けるが老婦人はだめだといった得手不得手がノーマン・ロックウェルの絵にはまったく感じられない。犬まで、その犬自身の気持ちや飼い主のことまでが想像できるように描かれている。しかし、説明的な絵というわけではない。あまりにも真に迫っているために、絵の背景が自然と想像できるのである。

時差で眠れない夜の読書で、野上弥生子「秀吉と利休」の次に、今は谷崎潤一郎「文章読本」(中公文庫)を読んでいる。そのなかに、こんな一節があった。

・・・文章のコツ、即ち人に「分らせる」ように書く秘訣は、言葉や文字で表現できることと出来ないこととの限界を知り、その限界内に止まることが第一でありまして、古の名文家と云われる人は皆その心得を持っていました。・・・

・・・古典の文章には一語一語に月の暈のような蔭があり裏があると云ったのはここのことでありまして、云い換えれば、僅かな言葉が暗示となって読者の想像力が働き出し、足りないところを読者自らが補うようにさせる。作者の筆は、ただその読者の想像力を誘い出すようにするだけである。・・・

私がこの日記で書きたいことは、まとまった考えや思想といったものではなく、日々の暮らしのなかで心で感じる空気とか手触りといったものだ。しかし、いつも、そんな空気や手触りが伝わっているものか、不安に感じている。

空気や手触りには形がない。いくらその空気や手触りを緻密に書こうと思っても、説明的になるばかりで、一向にそれが表現できたようには思えない。そうではなく、その文章を読むと、結果的に読み手の心に私の気持ちが再現されるような、そんな文章を書かなければならないのである。

絵によって人の気持ちを直接描くことはできない。しかし、ノーマン・ロックウェルの絵の人々の表情を見ると、その瞬間の彼らの気持ちが自分の心の中で再現される。ノーマン・ロックウェルは、決して感情を説明しているわけではない。ただ、ある瞬間の表情を切り取って見せてくれるだけである。そのことで、なににもまして感情の細かいひだまでが伝わってくる。

小林秀雄が「花が美しい、と書くのではなく、花の美しさを書く」という意味のことを書いていた。そう、私はそんなことを文章を書いてみたい、という野望を抱いているのである。


1998.8.9 Sun.  ニューヨーク3

朝、ベーグルを食べる。クリームチーズにサーモンを挟む。これはかけねなしにおいしかった。アメリカに来て、はじめて本当においしいものを食べた。

その足でグッゲンハイム美術館へ行く。バイクの歴史を回顧する展覧会をやっており、自転車にエンジンを取り付けたようなはじめてのバイクから、自動車と見まがうばかりの現代のバイクまで展示してある。かずあるバイクのなかでも、イージーライダーのチョッパーが一番印象的だった。仕上げがきれいで、部品のひとつひとつまで神経が行き届いている。バイクに特に興味のない私にとっても、このチョッパーの制作者のバイクへの愛情というものが伝わってくる。

美術館を出てみると、目の前の道に巨大なハーレーディビッドソンのバイクがならんでいた。この展覧会を見に来た人たちの自慢のバイクである。これも一つの展示のように見え、おかしかった。

次は、ホィットニー美術館へ行き、ワイエスの展覧会を見る。彼女は、ワイエスが描く、あの荒涼としたニューイングランドの片田舎の風景を見ると心が安らぐという。また、彼女は、寝る前に、スティーブン・キングのジェルサレムズロットを舞台とした吸血鬼がでてくる短編小説をよく読み返している。気持ちが落ち着いてよく寝ることができるという。これも、キングの故郷でもあるメイン州の荒涼とした風景のなかの物語である。明日からは、ニューイングランドへドライブをする予定だが、ワイエス的な風景をじかに見ることも目的の一つだ。

そして、地下鉄に乗り、ヤンキースティディアムへ。芝生の緑色がきれいだ。最近ヤンキースは好調だから、満員である。試合は、カンサスシティが先行したが、6回にノブロック、ジーター、オニールの三連打にバーニー・ウィリアムスがほとんどホームランの犠牲フライを打ち同点に追いつき、さらに、そのバーニー・ウィリアムスが8回裏には決勝打を打った。9回はリリーフエースのマリアーノ・リベラが出てくるという理想的な展開。あと一球という場面で観客が全員立ち上がり、最後の打者を打ち取った瞬間には、スタンディングオベーションがわき上がる。ここまで来てよかった。


1998.8.8 Sat.  ニューヨーク2

朝、ヤンキースのファンクラブのショップへ行く。明日のチケットとTシャツ、キャップを購入。にわかファンの準備完了。

ポールスチュワートの本店をのぞく。商品の種類が日本の店と桁違いである。小物もいろいろあり、眺めているだけで楽しい。次は、ここでスーツをあつらえてみたいと思う。

彼女の買い物につきあいSOHOへ行く。店が増え、すっかりにぎやかな観光地になっていた。それにしても夏の昼間の買い物は消耗する。

しばしホテルで午睡をとり、夜の部へ。The JAZZ Standardという店でジャズを聴く。ジャズはよく知らないが、職人風の年老いたバンドマンのカルテットがスタンダードな曲を演奏していたと思う。バンドマンたちは気持ちよさそうで、聴いているほうも気持ちよい。

ロックやポップミュージックは、洗練、成熟、熟練という要素とは縁が乏しい。(まったくないわけではないけれど)しかし、ジャズ、とくにスタンダードなジャズはその対極にあるのかもしれない。今日のバンドマンたちは、いかにも手慣れた感じで演奏しており、興奮というよりは余裕を感じさせる。スリリングではないが、リラックスできた。


1998.8.7 Fri.  ニューヨーク

12時間飛行機に乗りニューヨークに着く。ホテルに落ち着いたのは夕方だった。早速、地図とガイドブックを仕入れに本屋に行くついでに食事をとりに外に出た。

金曜日のためか、人出がかなり多いような気がする。適当に込んでいる店に入ってみる。アメリカのごくふつうのレストランの味付けとか調理方法はまったくもって大味だけれども、接客は気持ちがいいことが多いと思う。その店の店員も自然な雰囲気に親切な対応で、リラックスして食事ができた。チップという制度も、あながちわるくないような気もする。

食事のあと、バーンズ&ノーブルという大型書店のチェーン店へ行く。夜の12時まで開店していて便利である。10時過ぎに寄ったのだが、お客さんはかなりいる。椅子がおいてあり、いわゆる立ち読みをしている人が多い。ゆったり落ち着いた雰囲気の内装で落ち着ける雰囲気がよい。ただ、一般的な売れ線の本が多く、あまり趣味的な本は置いていない。

まだ、時差が残り、妙な時間に起きてしまう。野上弥生子「秀吉と利休」(中公文庫)を読了。それまでの緻密な書き込みに比べ、利休の切腹の瞬間は実にあっさりと書かれており、その落差がよかった。そのうち、物語の結末のつけ方一般について考えていることを書こうと思う。その時のいい事例になりそうである。

ホテルからローミングサービスでメールをチェックする。会社から仕事のメールが入っていた。


1998.8.6 Thu.  夏休み

今日から夏休みでありんす。イェッフー。

1998.8.5 Wed.  堺屋太一でなぜわるい

週刊誌の吊り広告を見ていると、新しい閣僚をくさす記事の見出しが並んでいる。それはそれでよいのだが、週刊読売の「堺屋経済企画庁長官は「女子プロレスおたく」」という見出しを見て、過剰反応してしまった。

「おたく」かどうかは知らないが、堺屋太一が熱心な女子プロレス、特に、JWPという団体のファンであることは確かだ。JWPの大きな大会に行くと、よく、リングサイド見かけたものだ。少なくとも、週プロかゴングを毎週チェックして、女子プロレスの流れを把握しているはずだ。以前、堺屋太一が書いた、プロレス業界は最も規制緩和が進んだ市場だ、という主旨の文章を読んだことがある。

それはともかく、いいではないか、週刊読売。女子プロレスファンが大臣になったって。なにがわるい。はぁはぁ。


1998.8.4 Tue.  自然観察日記

去年の今頃の日記を見ると、蝉が騒がしくて目が覚めると書いてあるが、今年の蝉はそこまではにぎやかではない。何年かに一度蝉の当たり年があるというから、去年がそうだったのかもしれないし、また、今年は天候が不順だから、蝉が少ないと言うことかも知れない。

数日前、今年初めて蝉の鳴き声を聴いた日があった。しばらくすると鳴きやんだ。窓の外を見ると、電線にとまっている鳥が、蝉をくわえていた。あまり大きくない鳥で、蝉を飲み込めず持てあましているようだった。土から出てきて、一番乗りで鳴き始めたら、さっそく食べられてしまうことになったようだ。

最近、毎朝ベランダの鉢植えを眺め、水をやっている。今は、朝顔が毎朝咲いているのを見るのが楽しみである。三本の苗を一つの鉢に植えているのだが、どういうわけか、毎日決まって一輪の花が咲く。

朝顔の花は、朝咲き、夕方にはしぼんでしまうわけだけれども、その短い間にきちんと受粉できているのか、他人事ながら気になるのである。きれいな花を付ける以上、自家受粉しているわけではないと思うが、さほど虫が飛び回っているわけではないここ雑司が谷で、それだけの時間できちんと受粉できているのだろうか。種がきちんとつくか、これも観察してみなければならない。

考えてみれば当たり前のことであるが、ちょうど成長が盛んなものが植わっている鉢の土は、そうでもないものに比べ、どんどん乾いていく。植物が水を吸い上げているわけだ。


1998.8.3 Mon.  熱帯夜

暑いときに暑いと書くのは、まったくもって芸のないことではあるけれど、ここ数日は、実に蒸し暑い。熱帯夜とはよく言ったものだ。

クーラーのタイマーをかけて寝る。しかし、クーラーが切れると寝苦しくなって目が覚めてしまう。しかし、一晩中クーラーをかけると、てきめんにだるくなることがわかっている。

夏休みが必要だ。


1998.8.2 Sun.  非常ベルが鳴っている

新日本プロレスG1クライマックス最終戦を見に行った。長州風に言うと、まさに、新日本プロレスに非常ベルが鳴っているのを聞かされた気分である。

G1クライマックスが始まって以来、新日本プロレスを実質的に支えてきたのは、三銃士だったと思う。しかし、橋本は別として、武藤、蝶野の肉体的衰えは隠せない状況になってきた。特に、武藤は膝のけがの状態が悪く、しばらくは、タッグ以外は厳しい状況だろう。

こうなることは新日本プロレスにもよくわかっていたのだろう。去年、IWGPチャンピョンになった佐々木健介を中心に据えてみたが、結局、彼ではファンを引っ張れないことが実証されてしまった。しかも、彼も今は足のけがで本調子ではない。

その上、現在のIWGPチャンピョンは藤波で、これでは、完全に時計の針が逆回転してしまっている。

このような状況で、三銃士以下の世代が三銃士を乗り越えようとしなければならないはずだ。ちょうど、第一回G1クライマックスで、長州を三銃士が破ったように。私は、今回のG1では、天山、小島、西村(中西にはあまり期待していない)あたりが三銃士の一角を崩してほしいと思っていた。しかし、そのようなことはなく、橋本と山崎の決勝戦になってしまった。

スタミナ、体格、体調では、むしろ三銃士以下の世代が上回っているところも多いと思う。問題は、ここ一番でのひらめき、集中力である。確かに、天山や小島は、大したスタミナがあり、そのタフさはすばらしいけれど、観客と対戦相手を驚かすような動きがない。そこが、武藤や蝶野にまだまだ及ばない原因となっている。西村はよくやっていると思うが、しかし、彼は、体格に問題がある。

最近の新日本を見ていると、馳の不在がじわじわと効いているように思える。馳がいれば、三銃士も、そうそう安閑としていられなかったはずである。健介も、もっとしっかりとIWGPチャンピョンを勤めていたかも知れない。

今の中堅のレスラーたちも、あまり中堅に甘んじている期間が長すぎると、新鮮みがなくなってしまう。天山も、そろそろnWoで蝶野の風下に甘んじている場合ではないと思う。

非常ベルが鳴っている。


1998.8.1 Sat.  梅雨どき

このマンションに引っ越してきて、丸一年経つ。はじめての梅雨をなんとか越したということになる。

日本の住居では、梅雨どきの湿気が一番手に負えないものだと思う。造りの悪い住居でも、暑さ、寒さはしのぐ方法もあるけれど、湿気ばかりはどうにもならない。だから、このマンションを選ぶとき、風通しがよいという点をかなり重視した。

しかし、共稼ぎのわが家では、日中はしめ切っているからどうしても湿気がこもってしまう。今日も、最近履かず靴箱のなかにいれっぱなしだった靴を見てみたら、カビが生えていた。靴を磨き、乾し、靴箱の扉を開け、空気を入れ換えた。

梅雨どきはなんともうっとうしいものである。


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